有志による某国立高専某学科某クラスのページ。夏休み中の連絡とかにも使ってください。課題に迷ったらココ!
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UNIT8
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林浩輝さん22歳は、3年前の悲劇の電車事故から回復し、テレビレポーターに質問されたとき“私は両親と夕食を食べに行きたいです。”と言った。 彼は大学を卒業して、今は大阪ブランチという広告会社で働いている。 林浩輝と他の2人は2005年5月25日、ごちゃごちゃになった電車事故の瓦礫にはさまれて体に重大な傷を負った。 医師、ナース、パラメディック(救急救命士)の三つの医療チームが絶えず尼崎電車の瓦礫の中から生き残った人々の命を救うために活動していた。 その事故のあとレスキューは彼が生き残っていたのは奇跡だといった、なぜなら中に彼が居た車両は原形を保ってはいなかったからだ。 兵庫県尼崎市でその通勤電車はカーブでスピードを上げすぎて脱線し、先頭の2車両はアパートに激突した。 700人以上の人が乗っていて、107人もの命がなくなりました。 林浩輝さんはそのとき同志社大学の2年生でした、彼は他の乗客2人とねじれた電車の金属の梁の内側にはさまれている間、極度の痛みに耐えていました。 6時間たったときレスキューは生き残った人を見つけるのに見切りをつけました。しかし、彼は瓦礫の中から彼の母に何度も電話しました。 電話した時、彼はすさまじい痛みを伴っていた、生き残ることを願望した。 レスキューは電磁波人命探査装置を使い1車両目から林さんと他の二人の生き残りを発見した。 他の二人を移動するのはとても困難だったが、若い林さんを引き抜くのはより困難だった。 彼らは切断トーチを使うことによって、火が出る事を恐れた。 医療指令責任者の中山医師はレスキューチームと共に瓦礫の中を這っていって3人の生き残った人を助けた。 彼は知っていた、もし瓦礫から抜け出して自由になる前から治療を始めたなら生き残る可能性が大きくなると。 中山医師は点滴をしている間、林さんを励まし続けました、林さんは苦難のなか頑張りました。 林さんは中山医師に“もう長くは持たない、あなたの全ての取り組みに感謝します。”と言った。長く続く救出活動の中、殆どの人は彼が生き残れることに絶望していました。 松岡修三は“出来る!出来る!頑張れ!頑張れ!やれる!絶対生き残れるって!!”と叫びました、そして堅く彼の手を握りました、林さんはその手を握り返しました。 今では医師は災害時の限られたスペースの中での医療技術が出来ます、挟まれて生き残った人のための。 彼らは点滴を確保し、クラッシュ症候群を回避させます。この症候群によって阪神大震災では何百人もの人が死にました。 このようなことから医師ははさまれた人に対する治療法などを訓練しています。 林さんは意識を失ったそして蘇生処置が必要だった、彼は事故から22時間後、瓦礫の中から最後に救出された。 中山医師と他の医師そしてレスキュー隊に感謝します。彼が元気付け、適切な医療処置を林さんにおこなったことがこの事故で林さんを生き残らせた。 内容はあってるかわからないよ(笑) 使用は自己責任でお願いします。
by m0511xx
| 2009-07-13 19:58
| 英訳
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